ドイツ最西端の街アーヘンは、古代ローマ時代から温泉地として栄え、中世にはカール大帝(シャルルマーニュ)によってフランク王国の宮廷都市となりました。カール大帝の宮殿が築かれたことで、アーヘンはヨーロッパの政治・文化・宗教の中心地として発展し、その影響は神聖ローマ帝国の時代まで続きました。
約600年にわたり皇帝の戴冠式が行われた「皇帝の都市」アーヘン。歴史をたどりながら、街の魅力を紹介します。

ローマ時代の温泉都市
アーヘンは、古代ローマ時代から温泉地として栄え、ローマ人はこの地の温泉を療養や軍の休養地として利用していました。「アーヘン」という地名は、温泉と深く関係しています。ラテン語で「水」を意味する「Aquae(アクアエ)」から、この地の温泉は「Aquae Granni(アクアエ・グラニ)」(グラヌスの水)と名付けられました。「Granni」は、ケルト神話に登場する治癒の神グラヌス(Grannus)に由来しています。この「Aquae Granni」が、「Aha(アハ)」に短縮され、その後「Aachen(アーヘン)」になったと言われています。


カール大帝が建設した宮殿とアーヘン大聖堂
8世紀後半、フランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)は、フランク王国の中心に位置し、温泉が湧き出るアーヘンを特に好み、王国の拠点としました。そして、この地に壮大な宮殿を築き、その中に宮廷礼拝堂(現在のアーヘン大聖堂)を建立しました。
宮殿では、国政を担う重要な会議が開かれたり、学者や聖職者が集められラテン語教育の推進や建築・美術の保護がされました。また、カール大帝は典礼の統一を進め、キリスト教の信仰を帝国内で統一することを目指しました。こうしてアーヘンは、西ヨーロッパの政治・宗教・文化の中心地として、そして事実上のフランク王国の首都となりました。(昔は首都という概念はありません)
アーヘン大聖堂については、詳しくはこちらをお読みください。

神聖ローマ帝国の戴冠式と「皇帝の都市」
カール大帝の死後、アーヘン大聖堂では約600年にわたり、神聖ローマ帝国の皇帝30人と女王12人の戴冠式が行われたことから、アーヘンは「皇帝の都市」として知られるようになりました。
また、カール大帝が収集した聖遺物が、中世に入り、7年ごとに公開される「聖遺物公開(Heiligtumsfahrt)」が行われ、多くの巡礼者が訪れるようになりました。
そしてアーヘンは、政治的・宗教的な重要性を持つ都市として発展しました。
カール大帝については、詳しくはこちらをお読みください。

産業革命とアーヘン工科大学の誕生
14世紀ごろから、皇帝の力が弱まるにつれて、アーヘンは政治の中心としての役割を失っていきます。その代わりに、商業都市としての発展が進むようになりました。
18世紀にはフランス革命軍に占領され、その後はプロイセンの領土となりました。
19世紀になると工業化が進み、アーヘンでも機械産業や繊維産業が発展しました。これにより高度な技術教育や研究の必要性が高まり、1870年に「王立ライン・ヴェストファーレン高等工業学校アーヘン」として現在のアーヘン工科大学(RWTH Aachen)が設立されました。こうしてアーヘンは学問と技術の中心地としての地位を築いていきました。
アーヘン工科大学については、詳しくはこちらをお読みください。

第二次世界大戦と戦後復興
第二次世界大戦では、アーヘンは連合軍によって占領された最初のドイツの都市となり、市の大部分が破壊されました。しかし、戦後の復興が進み、現在では工業技術、学術、そして歴史的観光都市としての魅力を兼ね備えた都市となっています。
まとめ
アーヘンは、古代には温泉地として、カール大帝の時代には宮廷都市として、その後は神聖ローマ帝国の皇帝の戴冠式が行われる「皇帝の都市」として発展しました。 その後、商業・工業都市として成長し、現在では歴史・学術・観光の魅力が詰まった街として、多くの人々を惹きつけています。
文:レンガ
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