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カール大帝とはどんな人?何をした人か、ヨーロッパの父と呼ばれる理由

わずか20歳でフランク国王となり、遠征を繰り返しながら西ヨーロッパの大半を統一したカール大帝。

西ローマ帝国滅亡後、約300年ぶりに「ローマ皇帝」として戴冠され、「ヨーロッパの父」とまで呼ばれるようになります。

現在のフランスやドイツの原型を築いたともいわれるカール大帝とは、どんな人物で何をしたのでしょうか。

カール大帝とはどんな人物なのか

カール大帝(シャルルマーニュ / 742年頃〜814年)は、フランク王国の国王ピピン3世の死後、20歳で王となり、後にローマ皇帝として戴冠された人物です。

当初は弟カールマン1世とともに王国を分割して統治していましたが、カールマン1世が早くに亡くなったことで、カール大帝が王国全体を統治することになります。

カール大帝は、自ら軍を率いて各地へ遠征を繰り返した行動力のある統治者として知られています。戦いだけでなく、遠征先を実際に巡りながら統治を行い、西ヨーロッパの大半を支配する巨大な王国を築き上げていきました。

また、軍事的な強さだけでなく、政治的な手腕や人望にも優れており、やがてローマ教皇とも深い関係を築き、西ヨーロッパにおける中心的な存在となっていきます。

8世紀当時のヨーロッパは、西ローマ帝国の滅亡後、小さな国や部族が分かれて争う不安定な時代でした。

そのような中で、カール大帝は広大な領土をまとめ上げ、西ヨーロッパに安定をもたらした数少ない統治者の一人でした。

カール大帝は何をした人なのか

カール大帝は、8世紀後半に西ヨーロッパの大半を統一したフランク国王です。

ローマ教皇から「ローマ皇帝」として戴冠され、後の皇帝たちにも大きな影響を与えました。現在のフランスやドイツの基盤を築いた人物としても知られ、こうした功績から「ヨーロッパの父」と呼ばれています。

① 小国だらけだった西ヨーロッパを統一した

カール大帝は現在のフランス、ドイツ、イタリア北部など広い地域を支配し、西ヨーロッパをまとめ上げました。

当時のヨーロッパは、小さな国や部族が分かれて争っていた時代であり、これほどの規模で領土を統一した王はほとんど存在しませんでした。

頻繁に遠征を行いながら勢力を拡大し、西ヨーロッパ最大級の王国を築き上げたのです。

② 約300年ぶりに「ローマ皇帝」に戴冠した

800年、カール大帝はローマ教皇レオ3世から「ローマ皇帝」として戴冠されました。

これは、西ローマ帝国が滅亡してから約300年ぶりとなる出来事であり、西ヨーロッパにおける「ローマ帝国の復活」を象徴する歴史的な瞬間でした。

この戴冠によって、カール大帝の権力は教会によって正式に認められ、西ヨーロッパでは政治と宗教の結びつきがより強まっていきます。

また、この出来事は、後に成立する神聖ローマ帝国の精神的な礎ともなりました。

③ 現在のフランスやドイツの原型を築いた

カール大帝の統治は、その後の神聖ローマ帝国やヨーロッパ社会の形成に大きな影響を与えました。

カール大帝の死後、巨大だったフランク王国は分かれていきましたが、その国々は後に現在のフランスやドイツへとつながっていきます。

つまり、今のヨーロッパを代表する国々のルーツは、カール大帝の時代に作られたともいわれています。

④ 巨大な国を安定して統治した

カール大帝は、広大な国を治めるため、各地域に貴族を配置し、行政や裁判を任せました。

また、「勅令(カピトゥラリア)」によって政治や法律のルールを整理し、バラバラだった地域を統一的に管理していきます。

こうして、大きな国を安定して運営できる仕組みを整えました。

⑤ 学問や文化を広めた(カロリング・ルネサンス)

カール大帝は、戦いだけでなく、学問や文化も大切にしていました。

学者や聖職者を集め、教育や読み書きを広めていきます。

こうした取り組みは、後に「カロリング・ルネサンス」と呼ばれる学問や文化の発展へとつながっていきます。

⑥ キリスト教で西ヨーロッパをまとめた

カール大帝は、キリスト教を国をまとめるために重要なものと考えていました。

ローマ教皇と協力しながら、教会や修道院を守り、キリスト教を広めていきます。

また、地域ごとに違っていた宗教のやり方も統一し、西ヨーロッパ全体を同じ信仰でまとめようとしました。

これにより、宗教と政治が強く結びついた大きな国が作られていきます。

このように、カール大帝は領土の統一だけでなく、政治・宗教・文化の面でもヨーロッパの土台を築いた人物でした。

政治の中心地に選んだアーヘン

カール大帝は、現在のドイツ西部にある都市アーヘンを政治と信仰の中心地として発展させました。

当時のアーヘンは、フランク王国のほぼ中央に位置しており、各地への移動や統治がしやすい場所でした。また、温泉地としても知られ、カール大帝自身もこの街を非常に気に入っていました。

アーヘンに宮殿や礼拝堂を建設し、フランク王国の実質的な「首都」として政治を行うようになります。

アーヘンの歴史については、詳しくはこちらをお読みください。

カール大帝が残した遺産

814年、カール大帝は亡くなり、アーヘン大聖堂内の八角形の礼拝堂に埋葬されました。

その後、936年から1531年までの約600年間にわたり、多くの神聖ローマ皇帝の戴冠式がアーヘン大聖堂で行われ、アーヘンは「皇帝の都市」としてヨーロッパ史に大きな影響を与えていきます。

後の皇帝たちもカール大帝を「理想の皇帝」として強く意識していました。特に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤ひげ王・バルバロッサ)は、カール大帝の列聖を進めたことで知られています。

また、フリードリヒ2世はカール大帝の遺骨を豪華な黄金の棺へ移し、大聖堂の整備も進めました。

このように、カール大帝は死後も長く皇帝たちの象徴的存在であり続けました。

まとめ

20歳で王となったカール大帝は、西ヨーロッパをほぼ統一し、約300年ぶりにローマ皇帝となりました。

そして、

・現在のフランスやドイツの原型を築いた
・キリスト教や学問、文化の発展にも大きな影響を与えた
・後の神聖ローマ皇帝たちにも影響を与えた

こうした功績から、カール大帝は現在でも「ヨーロッパの父」と呼ばれています。

歴史的に重要な都市であるアーヘンですが、実際に生活するとなると住まいや各種手続きで戸惑うことも少なくありません。

アーヘンでの物件探しや生活立ち上げについては、現地在住の日本人スタッフがサポートしています。ご不安な点がある方は、お気軽にご相談ください。

文:レンガ

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